到津の森公園

名誉園長の部屋 公園だより

もう一度、日本動物園水族館協会の10年ビジョンについて

 前回のコメントをまた繰り返すのかとお叱りを受けそうですが、文章においては、一つのフレーズ、一つの単語に見逃せない大きな重みを持っていることがあります。その重み知っていただけたらと筆をとっています。

 実は今回の文章の方が先に書かれ、日の目を見せないつもりでした。また同じことをとご批判を受けるのを承知でご覧下さい。前回のブログと文章の形態は異なっています。やや強い口調で・・・。すみません。

 

「いのち」は儚いのか。

 「いのち」の儚さを実感する時はどのような時なのだろうか。老婆は91歳で彼岸に渡った。死の前日、彼女に意識はなかった。時の流れを待つようにして死を迎える。「いのち」の儚さを感じることはなかった。この道は誰もが通るのだ。「いのち」を儚く思うのはなぜだろう。迎えるべき時とところを知らず唐突に直面する死は、我が手からもぎ取られたようで辛く、やるせない。「いのち」とはなんと儚きものか。なんと切ないものか。永遠とは言わないがこの「いのち」は私の掌にいつまでもあるものだと。

 儚さは突然やってくる不幸を起因とする。その不幸はどのように私たちに忍び寄るのか。それは私たちの無知によるのか。それとも天変地異によるものなのか。およそ6600万年前、恐竜は一斉に絶滅する。隕石の衝突により地球気候が劇的に変化したからだといわれる。今、地球上の絶滅に瀕している生物も実は急激な環境変化によるものだ。それは人類の無知に起因する。環境変化は徐々に進行しているように思えても、かの生物たちにとっては急激な変化に他ならない。種の生命スパンは千万年単位。だから数十年、数百年は昨日の出来事と変わらない。

 本来、「いのち」は力強いものだ。どのような逆境でも生き延びようとする。それは生物のもつ強靱な能力だ。だからこそ数億年の歴史を生き延びてきた。

 私は「いのち」を投げ出さない。それと同じように「いのち」を投げ出す種は皆無なのだ。ほんのわずかでも生存の可能性があればその可能性にかけることができる。無毛と見える土地にもほんの小さなきっかけさえあれば生命は宿る。私たちが今見ている生物は斯様な強靱な生命力で地球の多様な環境に適応し、その歴史を支えてきた。くり返し私は言いたい。儚く見える「いのち」は生命の歴史を軽視する人類の無知に起因している。

 

「いのち」の奇跡。

 「奇跡」とは「常識では理解でないような出来事」と解され、「神の力による超自然的現象」でもあるとされる。そのように神という存在を介在しなければ理解できず、神の力を信じる他はないという出来事は、もし神の存在を信じないものにはどのように説明したらよいのだろうか。世に起こりうる現象をすべて科学で理解できるとも思わないが、少なくとも多くの現象を「奇跡」と片付けるよりもその原因を解明する努力をし、次代に繋ごうとすることがよりポジティブだといえる。

 畏れずに言う。「いのち」に奇跡はない。あるのは必然なのだ。無は何も生まない。無から何も生まれない。もしその無から何かが生まれたとするのならば、その「無」は表象としての「無」で、生を包含した「無」だったのだ。「無」が無であるのか、生を包含した「無」なのか。科学はそれを証明する。

 私たちは表層のみを見てはならない。現象や事象の表層に真実があるのではなくその深層にこそ真実が隠されている。

「いのち」に秘められた強靱な力は「奇跡」をおこす。秘めているからこそその力を見過ごすが、実はその強靱な力こそ「いのち」の源なのだ。

 私たちが生きているこの地球には様々な「いのち」があり、その「いのち」は肩を接する「いのち」と結びあって生きていることを知る。種を繋ぎ、生き延びていくには奇跡に頼るわけにはいかない。が、人類が創りだしたあまりにも儚いこの環境で生きていくには、その環境を創り出した私たちの力をも必要としているということもまた事実である。 

 

 

 

 

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