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動物園と公共性

 動物園ライターと自称され、多くの動物園をご存じの森由民さんが昨日、FACEBOOKで動物園の公共性について書き込みされていました。私もコメントをさせていただきましたが、携帯からのアクセスのため言葉足らずで誤解を生じることも懸念され、この欄で改めて論じたいと思います。

 

 森さんはこう書かれています。

 「わたしは指定管理者制度よりも公営の保守を支持しますが、いまこそ、次の2点を踏まえて、きちんとした論議がなされるべきでしょう。1、指定管理者制度導入の背景となった経済効率に関する再検討。2、今回の記事の核心となっている、非公募による施設・組織としての持続性。

 これら両者を吟味するための一番の要点は『公共性』と考えます。経済効率は無視できないが、公共性を守るためには、それが最優先ではならない。それならば、税金の投入を含めて、どこまで公共性は尊重されるべきか。総論としての意識を保ちながら個別の事例・機関について、丁寧に検討することが望まれます。

 そして守られるべき公共性の水準が見えてくるなら、2のような持続性についても、どんなかたちで保守整備が望ましいかがあぶりだされてくるはずです。

 各地の動物園で、いまも指定管理の導入がリアルタイムで検討・実施されつつあります。いずれにおいても、この記事が投げかける問いは、回避してはならないものでしょう」。

 その記事とは「今度は民から官へ 指定管理者 見直し 美術館など公募 横浜市『そぐわぬ』」という東京新聞12月19日の記事です。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20121219/CK2012121902000125.html

 

 森さんの主張されることはまさにその通りだと思います。その上で論点を整理したいと思っています。

 森さんがどのような想いで「公共性」と言われているのかを私は知る由もありませんが、実はこの「公共性」という一般的呼称が、日本の動物園を蝕んでいるものかも知れないと思っているのです。日本の動物園の80%近くが公立です。現在のこの公立動物園の姿がおしなべて動物園とはこういったものだという固定概念を作り上げる元になっています。つまり「公共性」という名に包まれた均一化です。

 実は民間動物園の方がユニークな活動をしているのです。しかしながら日本は動物園本体で利益があがるほど動物園に寛容ではありません。寄付にまつわる税制一つをとっても私企業に有利ではないように。勢い民間動物園は観客を惹きつけるようなイベントに力点が置かれがちになります。それが動物ショーに繋がっていきます。

 では公立動物園ではどうなのでしょうか。動物園運営哲学を持ち合わせない自治体は利用者増加の手立てとして(公立は利用者数が評価の全てですから)ハードに目が向きます。目指したハードとは旭山動物園で名を馳せた「行動展示」にちなむ建物群ではないでしょうか。そして目玉になる動物、パンダやコアラなどです。

 民間動物園と公立動物園とはどのように運営意識が違うのでしょうか。(観客・利用者)数を追求するという基本的姿勢を見る限り、違いが見あたりません。

 公立動物園の「公共性」とはただ単に自治体が運営すればよいということではなく、地域住民の文化的質(もっと平たく言えば「生活の質」)をいかに向上させるかということに尽きると思っています。文化施設とはそういうものだと。指定管理制度から公募という枠が取れ、随意契約となったとしても公(おおやけ)の軛(くびき)から解き放たれたことにはなりません。動物園はこうあるべきだという運営哲学と確固たる経営意識をもつ人々によって運営される必要があります。誤解を恐れずにいえば、そう意味では民間動物園であるべきなのです。もちろん日本においてはその活動が不可能なことも理解しています。しかし理想型が見えない中での論議は虚しさの連鎖に過ぎません。

 

 木下直之さんの「美術という見世物」という本の帯には「官による『美術』の指導と民の『見世物』への欲望が交錯…」と書かれています。古くから画の基層文化があった日本ですら、明治の初期に「見世物」的な絵画(技法)が欧州より流入し、交錯したその様子に驚きを禁じ得ません。動物園は基層文化と呼べるほどの歴史を有していません。また動物が「見世物」であったことも否定できません。その「見世物」が生命のあるものだということも忘れていました。

 以前、博物館及びそれに類する施設で「人体の不思議展」というのが開催され、多くの観客を動員しました。ある特殊な方法で血液を樹脂に置き換え、人体を輪切りにし、それを展示するというものです。この展示はほぼ死体について基礎知識のない人々が対象です。なぜそのようなものが展示の対象となるのでしょうか。それは文化施設たる博物館が来館者数という数値の魔物に振り回された結果にすぎません。私たちは数を追うばかりに心までも売り渡していました。

 「見世物」にこだわっていては歩を運べないのです。

 

 私は森さんが言われる「公共性」を曲解しているのかもしれません。たぶん内実はそんなにかい離はしていないのではないでしょう。しかし一般的呼称での「公共性」を声高に言う公(おおやけ)に期待できないのは、何も政治の世界に限った事ではありません。

 繰り返し言わせてもらえば「公共性」とは「生活の質」の向上に他なりません。「生活の質」は地域によっては地域の、国によっては国の違いがあります。その相違を考慮したればこそ人々に良き影響を与えることができるのだと考えます。

 文化施設は効率を追求するという指定管理制度にそぐわないものだと思っています。横浜市が見直しするのは当然のように思えます。

  

 しかし同時に、わが町の動物園が、文化施設であるのか否かはもっと論議されてしかるべきでしょう。 

 

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