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日本動物園水族館協会の10年ビジョン

 今年の日本動物園水族館協会(JAZA)の総会でこのように10年ビジョンを設定しました。ご覧下さい。

 

 JAZA10年ビジョン

 動物園・水族館は、いのちの素晴らしさ、儚さ、大切さ、を実感し、学び、伝える「いのちの博物館」です。

 

 自然といのちを大切にする次世代を育てます。子どもたちが自然への扉を開き、

 いのちの不思議を感じる場としての充実を図ります。

(生き物への共感・関心、次世代育成)

 いきものにとって快適な環境づくりに努めます。

 訪れるすべての人がいのちの素晴らしさを学び、自然への関心を喚起させる展示を実現します。

(動物福祉、展示を通じた学習)

 いのちの奇跡をつなぐ保全センターとしての役割を果たします。

 国内外の園館や関係機関と連携をし、絶滅が危慎されるいきものの研究に取り組みます。

(飼育下繁殖、研究、保全)

 それぞれが個性豊かな喜びと学びの園と館になります。

 世界中にひとつしかない園館を・地域のひとたちに支えられ・ともに歩み・ともに作りあげます。

(市民協働、個性化)

 

 日本の動物園水族館がこの先どのように生きていかなければならないかという指針です。

 キーワードを拾っていきましょう。まず「いのち」という字句が幾度か使われていることに気づかれるでしょう。私たちは「いのち」という言葉をどのように捉えればいいのでしょうか。「生きていく力」、「生命」、「寿命」、「生涯」、「一番大事なもの」・・・。少なくとも「何とか生きながらえているもの・こと」ではないでしょう。だとするとこの「いのち」という言葉からは生きる「力」をイメージできるのではないでしょうか。大辞林にはこのよう書かれています。「生物を生かしていく根源的な力」と。

 フレーズは「いのちの素晴らしさ、儚さ」と続きます。しかしながら、少なくとも私は40年にわたる動物園生活の中、動物たちの「命(あえて漢字に)」を「儚い」とも弱いとも感じたことは一度たりともありません。野生動物は死の直前まで生に対する力を捨てません。もしそれら動物たちを寿命と思われる年数まで生かすことができなかったのならば、それは動物の弱き「命」ではなく、私たち動物園人の無知とその無知による過失に他なりません。この40年間、このように生きようとする彼らを死に至らしめた自分を何度責めたでしょうか。

 私は人生論を論じるつもりはありません。人生ならば挫けそうになる自分をかばいきれなくなることもあります。こんな人生なんて思うこともあるでしょう。このように弱い自分の生きざまを儚い「夢」のようだと揶揄することもあるかもしれません。が、私たちと共にいる動物たちが「儚く」見えるのならばそれはすべて私たちに責任があると考えるべきだと思っています。かほど私たちは動物園の動物ばかりでなく地球に存する動物たちの「いのち」に責任を負っているのです。

 もう一つ、「いのちの奇跡」というフレーズに気づかれたでしょうか。「奇跡」とは何でしょう。広辞苑では「既知の自然法則を超越した不思議な現象で、宗教的真理の徴と見なされるもの」とあります。また大辞林には「①常識では理解できないような出来事②主にキリスト教で、人々を信仰に導くために神によってなされたと信じられている超自然現象。神道や仏教では、同様の現象を『霊験』と呼んでいる」と書かれています。

 動物園・水族館が「奇跡をつなぐ保全センター」であるということをどのように解したらよいのでしょうか。かつて動物園や水族館が人を驚かすための施設であった時ならばそのような超自然現象も是としましょう。切ない現実から逃避するための手段であるならばそれも是としましょう。

 私たち今日の動物園を生きる者たちは、少なくとも常識では理解できないような事象が起きようとも、深い科学的推敲がなされ真理を求めるための努力が今最も必要だと感じています。私たちの手の届かない「奇跡」と思われる固く閉ざされた扉を科学の手で押し開く時はそこに来ている。

 現代においても動物のもつ真理は何一つ分かっていないと言っていいほどです。

 私はこの10年ビジョンを否定するものではないけれど、10年ビジョンにおけるフレーズを批判し、日本動物園水族館協会の反省を促したい。

 真理を追究しようとする人々の努力を「いのちの儚さ」や「いのちの奇跡」という今に受けるであろう語句でもって、もう一度闇に戻すのは嫌だと。例えほんの小さな言葉であれ、私たちの足元をすくうことだってあるのです。 

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