到津の森公園

名誉園長の部屋 公園だより

動物愛護論

 

 仕事柄多くの人にお会いします。動物好きな人と嫌いな人がいますが、私たちに会おうと思われる人の多くはどちらかと言うと「好き」な方です。しかし世の中はそのような人ばかりでありません。動物嫌いは大きく分けると二つのタイプがあります。物理的に「動物ダメ」な人。アレルギーを持っている人はそうです。もう一つは小さき時のトラウマです。例えば子どもの時に噛まれた、あるいは吠えられた人などは「動物嫌い」になることがあります。もちろんそれを克服される人もおられますが。「動物好き」と言われる人は多くのタイプがあります。哺乳類やペットのような動物は好きだが爬虫類はダメ。もちろんその反対もあります。

 ここでは「動物好き」に焦点を合わせ、いくつか論を展開していこうと思います。

 私たちのように動物園で動物を飼っている人は、対象(つまり飼育されている動物)が私たちのために存在しているかのような錯覚に陥ることです。動物園の宿命でしょうが、見に来るお客さん(市民)と見せられる動物(飼育動物)に主客があります。主たる目的を市民の意識向上に置き、これらの人々を如何に自然保護運動や種の保全運動に結び付かせるかということを動物園の主たる事業としていることが非常に多い。しかし、そのような事を言っているからといって目的が果たせられるほど簡単なものではありません。確かに言っていることは良くわかるのですが、いわゆる「見せている」動物からそのようなメッセージは読み取れないことの方が多いのです。例えばサルのある種類の保全を訴えたとしても、その園の飼育環境が自然下の生息地のようではなく、コンクリートでできた四角い無機質な檻というのが典型的な例です。このような環境でしか動物を飼育できないのであれば、敢えて言うと、動物園人(もしこのようなカテゴリーの人がいるのであれば)は動物を好きではないのかと思ってしまいそうです。「動物好き」はここが許せません。私もそれには同意します。「動物がかわいそうだ」という声があがってもしかるべきだというような「檻」が数多くあります。一例をあげると、動物を取り囲む壁を白く塗り、これが氷河だと言っても誰も信用しません。多くの動物園のホッキョクグマはこのような環境で飼育されています。しかも日本の夏は彼らにとっては地獄のような暑さと湿度です。地球温暖化、極地の氷の融解、温室化ガスの訴えをそのような動物園でしたとしても、どれほど市民の心からの理解を得ることができるのでしょうか。

 「動物好き」はこのような環境で飼育される動物でも好きな人もいれば、それは許せないと考える人もいます。悲しいことに「動物好き」の多くの市民は、動物を見ることだけで満足していることがいかに多いか。それ故に動物園の環境は変化せずにここまで来てしまいました。ヨーロッパと日本では文化的差異があり(この論が正しいが正しくないかは後に譲るとして)、特に日本では野生動物に関する意識が低いと思われます。例えば、北海道に出没する親子のクマに対するフィーバーは異常で危険性が全く考慮されていません。可愛らしさ優先の気持ちには、心情には理解ができても、野生動物の行動学的には理解ができません。このような例をあげるまでもなく、動物に対しては、「かわいい」あるいは「かわいそう」という両極端の感情が存在します(しかもこの両極端の感情は繋がりもあります)。「かわいい」も「かわいそう」も感情、フィーリングです。「かわいそう」に論点を絞ってみましょう。

 「かわいそう」と思う心はピュアです。心からの思い(感情、フィーリング)であるからです。しかし、それはいわばその人の価値(観)です。価値観は幼い時からの積み重ね、あるいはトラウマなどの心的変化から醸成されます。ですから、価値観は他人に委ねることはできません。それ故に価値観というのは千差万別であると言えます。逆に、他人の価値観を非難することもできません。もちろん公の理論からすると良き価値観の共有を「倫理」と言い、ある人は「公序」とも言います。それは最大公約数的で、個人の価値観による行動が他人に被害を与える場合は、それを規制するために「法」として定めます。「法」を犯さないのであれば何でもOKというわけにはなりません。そのコントロールが「倫理」です。しかし、感情は外に現れるものではありませんから、何を考えていても「法」的に罰せられることはありません。しかしいったん口にすると様々な規制を受けることがあります。

 話を戻しましょう。「かわいそう」と思うのは個人の価値観です。これは他人に強要することはできません。相手に分かってもらいたいと思った時に、「かわいそう」という言葉でない選択肢はないのでしょうか。これが科学です。個人の価値観を科学的評価しようというのではありません。「かわいそう」を個人の価値観ではなく、科学的評価に置き換えられないかということです。先ほどのホッキョクグマの飼育環境はあまりにも「かわいそう」です。「かわいそう」と思うことは見ている人の個人感情であり、価値観です。ですから「かわいそう」と思う人がいるそばに「ホッキョクグマ、かっこいい!」とはしゃいでいる人もいます。しかし、この「かわいそう」を動物から見た時はどうなのでしょうか。歴史と共に獲得してきたこのホッキョクグマの性質や行動がこの飼育下で再現されているのかどうか。つまりそのような多様な選択肢を彼らがこの飼育下で持っているのかどうか。私たちの生活を考えてみればよく分かります。病院は少なくとも生命を奪おうとはしていません。その逆でいかに長くその生命を保たれるかということに努力しています。入院してみて分かることは、今までの私たちの生活がいかに多くの「自由」があったかということです。「自由」とは、少なくとも数えきれない多くの行動の「選択肢」が自分に与えられているということです。入院していれば飢えで死ぬことはありません。しかし、病院食だけではなく、できればたこ焼きも食べたくなるというのが人の常です。少なくともこのような多くの行動の選択肢が動物園に用意されているのかどうかという科学的評価は可能です。先に述べたように「かわいそう」という個人の感情では他の人を自分のサイドに引き入れることはできません(同じ価値観を持っていれば別ですが)。しかし、このような科学的評価でのマイナス点の指摘は、多くの人の理解を得ることができます。これが「動物福祉」です。

 動物愛護論者はピュアであるがゆえに、この論争に多くの人々を巻き込むことができていません。心情論はあくまで個人的感情に基づくものです。また先にも述べましたがそれは個人の価値(観)です。この強要ができない故に、両者の感情論での論議となり、結論の出ない平行線をたどることになります。科学的論理は相手を言い負かすことではありません。相手に納得してもらうための論理です。動物愛護論者が手に入れなければならないものはそのための科学的根拠であり、それを元にした科学的論議が必要なのです。

 このようなことを考え始め、ある一定の信念に達したのは、動物論だけではなく、経済論、政治論、あるいは国独自の文化論など幅広い知識がこの論議に必要なのだということでした。「好き」「嫌い」だけでは何も動かない。勉強不足の自分を責めています。

 

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